(01)
① 彼立於門前三十分=
① 彼立〔於(門前)〕三十分。
に於いて、
① 立〔 〕⇒〔 〕立
① 於( )⇒( )於
といふ「移動」を行ふと、
① 彼立〔於(門前)〕三十分⇒
② 彼〔(門前)於〕立三十分=
② 彼〔(門前)に〕立つこと三十分。
といふ「漢文・訓読」が、成立する。
然るに、
(02)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 彼立〔於(門前)〕三十分。⇔
② 彼〔(門前)に〕立つこと三十分。
といふ「漢文・訓読」に於いて、
① の「語順」と、
② の「語順」は、「同じ」ではないが、
①〔 ( ) 〕
②〔 ( ) 〕
といふ「補足構造」自体に、「変り」はない。
然るに、
(04)
③ He had been standing in front of the door for 30 minutes=
③ He had《been〈standing{in[front〔of(the door)〕]for(30 minutes)}〉》.
に於いて、
③ had《 》⇒《 》had
③ been〈 〉⇒〈 〉been
③ standing{ }⇒{ }standing
③ in[ ]⇒[ ]in
③ front〔 〕⇒〔 〕front
③ of( )⇒( )of
③ for( )⇒( )for
といふ「移動」を行ふと、
③ He had《been〈standing{in[front〔of(the door)〕]for(30 minutes)}〉》⇒
④ He 《〈{[〔(the door)of〕front]in(30 minutes)for}standing〉been》had=
④ 彼は 《〈{[〔(ドア)の〕前]に(30分)間}立って〉ゐ》た。
といふ「英文・訓読」が、成立する。
従って、
(03)(04)により、
(05)
③ He had《been〈standing{in[front〔of(the door)〕]for(30 minutes)}〉》⇔
④ 彼は 《〈{[〔(ドア)の〕前]に(30分)間}立って〉ゐ》た。
といふ「英文・訓読」に於いて、
③ の「語順」と、
④ の「語順」は、「同じ」ではないが、
③《 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ]( ) } 〉 》
④《 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ]( ) } 〉 》
といふ「補足構造」自体に、「変り」はない。
然るに、
(06)
① 彼立〔於(門前)〕三十分。⇔
② 彼〔(門前)に〕立つこと三十分。
に於ける、
①〔 ( ) 〕
②〔 ( ) 〕
といふ「補足構造」と、
③ He had《been〈standing{in[front〔of(the door)〕]for(30 minutes)}〉》⇔
④ 彼は 《〈{[〔(ドア)の〕前]に(30分)間}立って〉ゐ》た。
に於ける、
③《 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ]( ) } 〉 》
④《 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ]( ) } 〉 》
といふ「補足構造」は、言ふ迄もなく、「同じ」ではない。
従って、
(03)~(06)により、
(07)
① 彼立〔於(門前)〕三十分。⇔
② 彼〔(門前)に〕立つこと三十分。
といふ「漢文・訓読」の場合は、
① の「語順」と、
② の「語順」は、「同じ」ではないが、
①〔 ( ) 〕
②〔 ( ) 〕
といふ「補足構造」は、「同じ」であり、
① 彼立〔於(門前)〕三十分 ⇔
④ 彼は 《〈{[〔(ドア)の〕前]に(30分)間}立って〉ゐ》た。
といふ「漢文・和訳」の場合は、
① の「語順」と、
④ の「語順」が、「同じ」ではないだけではなく、
①〔 ( ) 〕
④《 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ]( ) } 〉 》
といふ「補足構造」も、「同じ」ではない。
従って、
(08)
「漢文・訓読」とは、「原文(漢文)のシンタックス」を保存した形で行はれる、「逐語訳」であり、
「漢文・和訳」とは、「原文(漢文)のシンタックス」を無視した形で行はれる、「 意訳 」である。
然るに、
(09)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
従って、
(08)(09)により、
(10)
昭和五年、中国から帰国した、倉石武四郎先生は、
「原文(漢文)のシンタックス」を保存した形で行はれる、「翻訳」を止めて、
「原文(漢文)のシンタックス」を無視した形で行はれる、「翻訳」を、授業に、取り入れた。
といふことになる。
(11)
その「結果」として、今日に至って、
「語順が異なれば、シンタックスも異なる」が故に、「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。
といふことになる。
然るに、
(12)
もう一度、確認すると、
③ He had《been〈standing{in[front〔of(the door)〕]for(30 minutes)}〉》⇔
④ 彼は 《〈{[〔(ドア)の〕前]に(30分)間}立って〉ゐ》た。
といふ「英文・訓読」に於ける、
③《 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ]( ) } 〉 》
④《 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ]( ) } 〉 》
といふ「括弧(補足構造)」が示してゐる通り、
「語順が異なれば、シンタックスも異なる(語順が等しいければ、そのときに限って、シンタックスは等しい)。」といふ「理解」は、「単なる、誤解」に過ぎない。
平成31年04月02日、毛利太。
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