2019年4月13日土曜日

「吾輩は猫である。」に於ける「吾輩は(のスコープ)」について。

―「返り点と括弧」に関しては、『「返り点」と「括弧」の関係(https://kannbunn.blogspot.com/2019/01/blog-post_21.html)』他をお読み下さい。―
(01)
(ⅰ)
1(1)∀x{∀y(Fxy)} A
1(2)   ∀y(Fay)  1UE
1(3)      Fab   2UE
1(4)   ∀x(Fxb)  3UI
1(5)∀y{∀x(Fxy)  4UI
(ⅱ)
1(1)∀y{∀x(Fxy)} A
1(2)   ∀x(Fxb)  1UE
1(3)      Fab   1UE
1(4)   ∀y(Fay)  3UI
1(5)∀x{∀y(Fxy)} 4UI
 cf.
(E.J.レモン 著、武生治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、163頁改)
従って、
(01)により、
(02)
(ⅰ)∀x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)∀y{∀x(Fxy)}
に於いて、
(a)ならば(b)であり、
(b)ならば(a)である。
従って、
(02)により、
(03)
(ⅰ)∀x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)∀y{∀x(Fxy)}
に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ) である。
然るに、
(04)
(ⅰ)
1 (1)∃x{∀y(Fxy)} A
 2(2)   ∀y(Fay)  A
 2(3)      Fab   2UI
 2(4)   ∃x(Fxb)  3EI
1 (5)   ∃x(Fxb)  134EE
1 (6)∀y{∃x(Fxy}  5UI
(ⅱ)
1 (1)∀y{∃x(Fxy)} A
1 (2)   ∃x(Fxb)  1UE
 )      Fa   A
 3(4)   ∀y(Fay)  UI
 3(5)∃x{∀y(Fay)} 4EI
1 (6)∃x{∀y(Fay)} 235EE
然るに、
(05)
ただ一つの誤った段階は、(ⅱ)の(4)である。()は、「」を含み、その結果UIの制限が破られている点が誤りである。
(E.J.レモン 著、武生治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、166頁改)
従って、
(04)(05)により、
(06)
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}
に於いて、
(ⅰ)ならば(ⅱ)であるが、
(ⅱ)ならば(ⅱ)ある。ではない
従って、
(06)により、
(07)
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}
に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ) ではない
然るに、
(08)
{a、b、c}が「変域(ドメイン)」であるとして、
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}={∀y(Fay)}∨{∀y(Fby)}∨{∀y(Fcy)}
(〃)∃x{∀y(Fxy)}=(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)
(09)
{a、b、c}が「変域(ドメイン)」であるとして、
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}={∃x(Fxa)}&{∃x(Fxb)}∨{∃x(Fxc)}
(〃)∀y{∃x(Fxy)}=(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)
従って、
(08)(09)により、
(10)
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)=∃x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)=∀y{∃x(Fxy)}
然るに、
(11)
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)=∃x{∀y(Fxy)}
であれば、「真理表」により、例へば、
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)
が「真」であれば、「(ⅰ)の全体」が「真」である。
然るに、
(12)
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)
が「真」であれば、「&E、∨I、&I」により、
(ⅱ)(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)=∀y{∃x(Fxy)}
は「真」である。
従って、
(08)~(11)により、
(13)
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)=∃x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)=∀y{∃x(Fxy)}
に於いて、
(ⅰ)ならば(ⅱ)である。
然るに、
(14)
(ⅱ)(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)=∀y{∃x(Fxy)}
であれば、「真理表」により、例へば、
(ⅱ)(Faa&Fab&Fac)
は「真」であるが、
(ⅱ)(Fba&Fcb&Fac)
「真」である。
然るに、
(15)
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)=∃x{∀y(Fxy)}
の、「三つの、選言項」中に、
(ⅱ)(Faa&Fab&Fac) といふ「選言項」は有るが、
(ⅱ)(Fba&Fcb&Fac) といふ「選言項」は無い
従って、
(14)(15)により、
(16)
(ⅱ)(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)=∀y{∃x(Fxy)}
が「」である。としても、
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)=∃x{∀y(Fxy)}
が「」であるとは、限らない
従って、
(13)(16)により、
(17)
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}=(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}=(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)
に於いて、
(ⅰ)ならば、(ⅱ)であるが、
(ⅱ)ならば、(ⅰ)である。とは、限らない。
(18)
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}
に於いて、
(ⅰ)F=親である。
(ⅱ)F=親である。
とする。
従って、
(17)(18)により、
(19)
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=(親aa&親ab&親ac)∨(親ba&親bb&親bc)∨(親ca&親cb&親cc)
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=(親aa∨親ba∨親ca)&(親ab∨親bb∨親cb)&(親ac∨親bc∨親cc)
に於いて、
(ⅰ)ならば、(ⅱ)であるが、
(ⅱ)ならば、(ⅰ)である。とは、限らない。
然るに、
(20)
「現実の世界」を、想定すると、
親aa=aは自分自身の親である。
親bb=bは自分自身の親である。
親cc=aは自分自身の親である。
とするわけには、行かない。
然るに、
(21)
しかしながら、逆の連式 ∀y{∃x(Fxy)}├ ∃x{∀y(Fxy)} は導出可能ではない。またそれが可能であることは願わしいことでもないだろう。人間の世界を考え、親であるという関係としよう。すると、すべての人はある人を親としてもつが、しかしすべての人の親である人が存在する、ということは偽である。
(E.J.レモン 著、武生治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、166頁改)
従って、
(19)(20)(21)により、
(22)
「現実の世界」を、想定すると、
親aa=aは自分自身の親である。
親bb=bは自分自身の親である。
親cc=aは自分自身の親である。
とするわけには、行かないが、E.J.レモン自身も、「F=親である」としてゐるので、「話を簡単にする」ため、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=(親aa&親ab&親ac)∨(親ba&親bb&親bc)∨(親ca&親cb&親cc)
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=(親aa∨親ba∨親ca)&(親ab∨親bb∨親cb)&(親ac∨親bc∨親cc)
であるとする。
然るに、
(23)
人間の世界(ドメイン)={a、b、c}
とした上で、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=(親aa&親ab&親ac)∨(親ba&親bb&親bc)∨(親ca&親cb&親cc)
といふ「論理式」に於いて、
(ⅰ)(親aa&親ab&親ac)ならば、「aはすべての人の親である。」
(ⅰ)(親ba&親bb&親bc)ならば、「bはすべての人の親である。」
(ⅰ)(親ca&親cb&親cc)ならば、「cはすべての人の親である。」
従って、
(11)(23)により、
(24)
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=(親aa&親ab&親ac)∨(親ba&親bb&親bc)∨(親ca&親cb&親cc)
といふ「論理式」は、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=ある人は、すべての人の親である。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(25)
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=(親aa∨親ba∨親ca)&(親ab∨親bb∨親cb)&(親ac∨親bc∨親cc)
といふ「論理式」は、
(ⅱ)(親aa∨親ba∨親ca)の中の、少なくとも、一つの(親#a)が「真」であり、
(ⅱ)(親ab∨親bb∨親cb)の中の、少なくとも、一つの(親#b)が「真」であり、
(ⅱ)(親ac∨親bc∨親cc)の中の、少なくとも、一つの(親#c)が「真」である。
といふことを、「意味」してゐる。
然るに、
(26)
人間の世界(ドメイン)={a、b、c}
とした上で、
(ⅱ)(親aa∨親ba∨親ca)の中の、一つの(親#a)が「真」であり、
(ⅱ)(親ab∨親bb∨親cb)の中の、一つの(親#b)が「真」であり、
(ⅱ)(親ac∨親bc∨親cc)の中の、一つの(親#c)が「真」である。
といふことは、
人間の世界(ドメイン)={a、b、c}
に於いて、
「aには、aの親である#が存在し、bにも、bの親である#が存在し、cにも、親である#が存在する。」といふことを、「意味」してゐる。
然るに、
(27)
人間の世界(ドメイン)={a、b、c}
とした上で、
「aには、aの親である#が存在し、bにも、bの親である#が存在し、cにも、親である#が存在する。」といふことは、
「すべての人は、ある人のである。」といふことに、他ならない。
(25)(26)(27)により、
(28)
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=(親aa∨親ba∨親ca)&(親ab∨親bb∨親cb)&(親ac∨親bc∨親cc)
といふ「論理式」は、
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=すべての人はある人の子である。
といふ風に、読むことが、出来る。
従って、
(24)(28)により、
(29)
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=(親aa&親ab&親ac)∨(親ba&親bb&親bc)∨(親ca&親cb&親cc)
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=(親aa∨親ba∨親ca)&(親ab∨親bb∨親cb)&(親ac∨親bc∨親cc)
といふ「論理式」は、それぞれ、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=ある人は、すべての人の親である。
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=すべての人は、ある人の子である。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(30)
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=ある人は、すべての人の親である。
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=すべての人は、ある人の子である。
といふ「論理式」は、
(ⅰ)∃x∀y親xy=ある人は、すべての人の親である。
(ⅱ)∀y∃x親xy=すべての人は、ある人の子である。
といふ風に、書く方が、「普通」である。
然るに、
(31)
(ⅰ)∃x∀y親xy
(ⅱ)∀y∃x親xy
に於いて、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}
といふ「括弧」が、無いのであれば、固より、
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}=(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}=(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)
といふ「二つの等式」は、成立しない
従って、
(31)により、
(32)
(ⅰ)∃x∀y親xy=ある人は、すべての人の親である。
(ⅱ)∀y∃x親xy=すべての人は、ある人の子である。
といふ「論理式」には、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=ある人は、すべての人の親である。
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=すべての人は、ある人の子である。
といふ「括弧」が、「省略」されてゐる。
然るに、
(33) 
括弧は、論理演算子スコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(32)(33)により、
(34)
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=ある人は{すべての人の親である。}
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=すべての人は{ある人の子である。}
に於いて、
(ⅰ)∃x=ある人
(ⅱ)∀y=すべての人
といふ「演算子」の、それぞれの「意味」は、
(ⅰ){∀y(親xy)}={すべての人の親である。}
(ⅱ){∃x(親xy)}={ある人の子である。}
といふ「述部の全体」に、「及んでゐる」。
然るに、
(35)
以前にも示した通り、
1     (1) ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)} A
1     (〃)あるxは吾輩であって猫であるが、名前は無い。 A
1     (〃)    吾輩は猫である。名前はまだ無い。   A
 2    (2)    吾輩a&猫a& ~∃y(名前ya)  A
 2    (3)    吾輩a                2&E
 2    (4)        猫a             2&E
 2    (5)            ~∃y(名前ya)  2&E
  6   (6) ∃x{タマx&     ∃y(名前yx)} A
  6   (〃)あるxはタマであり、あるyはxの名前である。 A
  6   (〃)    タマには名前が有る。         A 
   7  (7)    タマa&     ∃y(名前ya)  A
   7  (8)    タマa&               7&E
   7  (9)             ∃y(名前ya)  7&E
 2 7  (ア)   ~∃y(名前ya)&∃y(名前ya)  59&I
 26   (イ)   ~∃y(名前ya)&∃y(名前ya)  67アEE
 2    (ウ)~∃x{タマx&     ∃y(名前yx)} 6アRAA
  2    (エ)∀x~{タマx&     ∃y(名前yx)} ウ量化子の関係
 2    (オ)  ~{タマa&     ∃y(名前ya)} エUE
 2    (カ)   ~タマa∨    ~∃y(名前ya)  オ、ドモルガンの法則
    キ (キ)   ~タマa                A
    キ (ク) ~∃y(名前ya)∨~タマa        キ∨I
     ケ(ケ) ~∃y(名前ya)             A
     ケ(コ) ~∃y(名前ya)∨~タマa        ケ∨I
 2    (サ) ~∃y(名前ya)∨~タマa        カキクケコ∨E
 2    (シ)  ∃y(名前ya)→~タマa        サ含意の定義
 2 7  (ス)           ~タマa        9シMPP
 2 7  (セ)     吾輩a&~タマa          3ス&I
 2 7  (ソ)     吾輩a&~タマa&猫a       4セ&I
 2 7  (タ)  ∃x(吾輩x&~タマx&猫x)      ソEI
 26   (チ)  ∃x(吾輩x&~タマx&猫x)      67タEE
1 6   (ツ)  ∃x(吾輩x&~タマx&猫x)      12チEE
1 6   (〃)あるxは吾輩であってタマではなく猫である。  12チEE
1 6   (〃)    吾輩はタマではないが、 猫である。  12チEE
従って、
(34)(35)により、
(36)
(ⅲ)  ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
(〃)あるxは{吾輩であって猫であるが、名前は無い。}
(〃)    {吾輩は猫である。名前はまだ無い。}
に於いて、
(ⅰ)∃x=吾輩x=吾輩は
といふ「演算子」の「意味」は、
(ⅲ)    {吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
(〃)    {吾輩であって猫であるが、名前は無い。}
(〃)    {吾輩は猫である。名前はまだ無い。}
といふ「述部の全体」に、「及んでゐる」。
従って、
(36)により、
(37)
(ⅲ)  ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
(〃)あるxは{吾輩であって猫であるが、名前は無い。}
(〃)    {吾輩は猫である。名前はまだ無い。}
といふ「述語論理・日本語」の「主題・題目」は、確かに「吾輩」である。
然るに、
(38)
(ⅲ)  ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
の中には、「二つの&」が有るものの、このことは、「述語論理の観点」からすると、
(ⅲ)  ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
の中には、「多ければ、三つの文が有る。」といふことを、示してゐる。
然るに、
(39)
(ⅲ)  ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
の中には、「多ければ、三つの文が有る。」といふことは、
(ⅲ)  ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
の中には、「多ければ、三つのピリオド(。)が有る。」といふことを、示してゐる。
然るに、
(40)
吾輩猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
三上は、冒頭の題目「吾輩」の文はピリオドを3回に渡った超えていると分析する。つまり、以下のような形で示せるのである。
  吾輩は→猫である。
  吾輩は→名前はまだ無い。
  吾輩は→どこで生れたか頓と見当がつかぬ。
  吾輩は→何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
(金谷武洋、日本語の文法の謎を解く、2003年、72頁)
然るに、
(35)により、
(41)
吾輩猫である。名前はまだ無い。
はともかく、
どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
といふ「日本語」を、「述語論理」に置き換へることは、少なくとも、私には、無理である。
然るに、
(42)
(ⅳ)=名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
であるとして、
(ⅳ)吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
といふ「日本語」を、「述語論理」に置き換へることが、出来るのであれば、その場合は、
(ⅳ)∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)&}⇔
(ⅳ)吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(43)
(ⅳ)=名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
の中に、仮に、「四つの&」が有るとする。
従って、
(38)(39)(42)(43)により、
(44)
その場合には、
(ⅳ)∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)&P}
といふ「述語論理」には、「多ければ、八つのピリオド(。)が有る。」といふ、ことになる。
(40)(44)により、
(45)
(ⅳ)∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)&P}⇔
(ⅳ)吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
に於ける、
(ⅳ)∃x=吾輩x=吾輩
といふ「演算子の意味」が、「複数のピリオド(。)を超える。」といふことは、「述語論理的には、普通である」。
然るに、
(46)
金谷武洋先生曰く、
三上章の『象は鼻が長い』を読み、「主語廃止論」と並んで衝撃的であったのは、「」のコンマ超えピリオド越えである(金谷武洋、日本語の文法の謎を解く、2003年、72頁)。
との、ことである。
平成31年04月13日、毛利太。

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