―「返り点と括弧」に関しては、『「返り点」と「括弧」の関係(https://kannbunn.blogspot.com/2019/01/blog-post_21.html)』他をお読み下さい。―
(01)
(ⅰ)
1(1)∀x{∀y(Fxy)} A
1(2) ∀y(Fay) 1UE
1(3) Fab 2UE
1(4) ∀x(Fxb) 3UI
1(5)∀y{∀x(Fxy) 4UI
(ⅱ)
1(1)∀y{∀x(Fxy)} A
1(2) ∀x(Fxb) 1UE
1(3) Fab 1UE
1(4) ∀y(Fay) 3UI
1(5)∀x{∀y(Fxy)} 4UI
cf.
(E.J.レモン 著、武生治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、163頁改)
従って、
(01)により、
(02)
(ⅰ)∀x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)∀y{∀x(Fxy)}
に於いて、
(a)ならば(b)であり、
(b)ならば(a)である。
従って、
(02)により、
(03)
(ⅰ)∀x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)∀y{∀x(Fxy)}
に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ) である。
然るに、
(04)
(ⅰ)
1 (1)∃x{∀y(Fxy)} A
2(2) ∀y(Fay) A
2(3) Fab 2UI
2(4) ∃x(Fxb) 3EI
1 (5) ∃x(Fxb) 134EE
1 (6)∀y{∃x(Fxy} 5UI
(ⅱ)
1 (1)∀y{∃x(Fxy)} A
1 (2) ∃x(Fxb) 1UE
3(3) Fab A
3(4) ∀y(Fay) 3UI
3(5)∃x{∀y(Fay)} 4EI
1 (6)∃x{∀y(Fay)} 235EE
然るに、
(05)
ただ一つの誤った段階は、(ⅱ)の(4)である。(3)は、「b」を含み、その結果UIの制限が破られている点が誤りである。
(E.J.レモン 著、武生治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、166頁改)
従って、
(04)(05)により、
(06)
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}
に於いて、
(ⅰ)ならば(ⅱ)であるが、
(ⅱ)ならば(ⅱ)ある。ではない。
従って、
(06)により、
(07)
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}
に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ) ではない。
然るに、
(08)
{a、b、c}が「変域(ドメイン)」であるとして、
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}={∀y(Fay)}∨{∀y(Fby)}∨{∀y(Fcy)}
(〃)∃x{∀y(Fxy)}=(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)
(09)
{a、b、c}が「変域(ドメイン)」であるとして、
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}={∃x(Fxa)}&{∃x(Fxb)}∨{∃x(Fxc)}
(〃)∀y{∃x(Fxy)}=(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)
従って、
(08)(09)により、
(10)
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)=∃x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)=∀y{∃x(Fxy)}
然るに、
(11)
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)=∃x{∀y(Fxy)}
であれば、「∨の真理表」により、例へば、
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)
が「真」であれば、「(ⅰ)の全体」が「真」である。
然るに、
(12)
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)
が「真」であれば、「&E、∨I、&I」により、
(ⅱ)(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)=∀y{∃x(Fxy)}
は「真」である。
従って、
(08)~(11)により、
(13)
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)=∃x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)=∀y{∃x(Fxy)}
に於いて、
(ⅰ)ならば(ⅱ)である。
然るに、
(14)
(ⅱ)(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)=∀y{∃x(Fxy)}
であれば、「∨の真理表」により、例へば、
(ⅱ)(Faa&Fab&Fac)
は「真」であるが、
(ⅱ)(Fba&Fcb&Fac)
も「真」である。
然るに、
(15)
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)=∃x{∀y(Fxy)}
の、「三つの、選言項」中に、
(ⅱ)(Faa&Fab&Fac) といふ「選言項」は有るが、
(ⅱ)(Fba&Fcb&Fac) といふ「選言項」は無い。
従って、
(14)(15)により、
(16)
(ⅱ)(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)=∀y{∃x(Fxy)}
が「真」である。としても、
(ⅰ)(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)=∃x{∀y(Fxy)}
が「真」であるとは、限らない。
従って、
(13)(16)により、
(17)
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}=(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}=(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)
に於いて、
(ⅰ)ならば、(ⅱ)であるが、
(ⅱ)ならば、(ⅰ)である。とは、限らない。
(18)
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}
に於いて、
(ⅰ)F=親である。
(ⅱ)F=親である。
とする。
従って、
(17)(18)により、
(19)
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=(親aa&親ab&親ac)∨(親ba&親bb&親bc)∨(親ca&親cb&親cc)
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=(親aa∨親ba∨親ca)&(親ab∨親bb∨親cb)&(親ac∨親bc∨親cc)
に於いて、
(ⅰ)ならば、(ⅱ)であるが、
(ⅱ)ならば、(ⅰ)である。とは、限らない。
然るに、
(20)
「現実の世界」を、想定すると、
親aa=aは自分自身の親である。
親bb=bは自分自身の親である。
親cc=aは自分自身の親である。
とするわけには、行かない。
然るに、
(21)
しかしながら、逆の連式 ∀y{∃x(Fxy)}├ ∃x{∀y(Fxy)} は導出可能ではない。またそれが可能であることは願わしいことでもないだろう。人間の世界を考え、Fを親であるという関係としよう。すると、すべての人はある人を親としてもつが、しかしすべての人の親である人が存在する、ということは偽である。
(E.J.レモン 著、武生治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、166頁改)
従って、
(19)(20)(21)により、
(22)
「現実の世界」を、想定すると、
親aa=aは自分自身の親である。
親bb=bは自分自身の親である。
親cc=aは自分自身の親である。
とするわけには、行かないが、E.J.レモン自身も、「F=親である」としてゐるので、「話を簡単にする」ため、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=(親aa&親ab&親ac)∨(親ba&親bb&親bc)∨(親ca&親cb&親cc)
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=(親aa∨親ba∨親ca)&(親ab∨親bb∨親cb)&(親ac∨親bc∨親cc)
であるとする。
然るに、
(23)
人間の世界(ドメイン)={a、b、c}
とした上で、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=(親aa&親ab&親ac)∨(親ba&親bb&親bc)∨(親ca&親cb&親cc)
といふ「論理式」に於いて、
(ⅰ)(親aa&親ab&親ac)ならば、「aはすべての人の親である。」
(ⅰ)(親ba&親bb&親bc)ならば、「bはすべての人の親である。」
(ⅰ)(親ca&親cb&親cc)ならば、「cはすべての人の親である。」
従って、
(11)(23)により、
(24)
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=(親aa&親ab&親ac)∨(親ba&親bb&親bc)∨(親ca&親cb&親cc)
といふ「論理式」は、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=ある人は、すべての人の親である。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(25)
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=(親aa∨親ba∨親ca)&(親ab∨親bb∨親cb)&(親ac∨親bc∨親cc)
といふ「論理式」は、
(ⅱ)(親aa∨親ba∨親ca)の中の、少なくとも、一つの(親#a)が「真」であり、
(ⅱ)(親ab∨親bb∨親cb)の中の、少なくとも、一つの(親#b)が「真」であり、
(ⅱ)(親ac∨親bc∨親cc)の中の、少なくとも、一つの(親#c)が「真」である。
といふことを、「意味」してゐる。
然るに、
(26)
人間の世界(ドメイン)={a、b、c}
とした上で、
(ⅱ)(親aa∨親ba∨親ca)の中の、一つの(親#a)が「真」であり、
(ⅱ)(親ab∨親bb∨親cb)の中の、一つの(親#b)が「真」であり、
(ⅱ)(親ac∨親bc∨親cc)の中の、一つの(親#c)が「真」である。
といふことは、
人間の世界(ドメイン)={a、b、c}
に於いて、
「aには、aの親である#が存在し、bにも、bの親である#が存在し、cにも、親である#が存在する。」といふことを、「意味」してゐる。
然るに、
(27)
人間の世界(ドメイン)={a、b、c}
とした上で、
「aには、aの親である#が存在し、bにも、bの親である#が存在し、cにも、親である#が存在する。」といふことは、
「すべての人は、ある人の子である。」といふことに、他ならない。
(25)(26)(27)により、
(28)
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=(親aa∨親ba∨親ca)&(親ab∨親bb∨親cb)&(親ac∨親bc∨親cc)
といふ「論理式」は、
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=すべての人はある人の子である。
といふ風に、読むことが、出来る。
従って、
(24)(28)により、
(29)
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=(親aa&親ab&親ac)∨(親ba&親bb&親bc)∨(親ca&親cb&親cc)
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=(親aa∨親ba∨親ca)&(親ab∨親bb∨親cb)&(親ac∨親bc∨親cc)
といふ「論理式」は、それぞれ、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=ある人は、すべての人の親である。
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=すべての人は、ある人の子である。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(30)
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=ある人は、すべての人の親である。
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=すべての人は、ある人の子である。
といふ「論理式」は、
(ⅰ)∃x∀y親xy=ある人は、すべての人の親である。
(ⅱ)∀y∃x親xy=すべての人は、ある人の子である。
といふ風に、書く方が、「普通」である。
然るに、
(31)
(ⅰ)∃x∀y親xy
(ⅱ)∀y∃x親xy
に於いて、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}
といふ「括弧」が、無いのであれば、固より、
(ⅰ)∃x{∀y(Fxy)}=(Faa&Fab&Fac)∨(Fba&Fbb&Fbc)∨(Fca&Fcb&Fcc)
(ⅱ)∀y{∃x(Fxy)}=(Faa∨Fba∨Fca)&(Fab∨Fbb∨Fcb)&(Fac∨Fbc∨Fcc)
といふ「二つの等式」は、成立しない。
従って、
(31)により、
(32)
(ⅰ)∃x∀y親xy=ある人は、すべての人の親である。
(ⅱ)∀y∃x親xy=すべての人は、ある人の子である。
といふ「論理式」には、
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=ある人は、すべての人の親である。
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=すべての人は、ある人の子である。
といふ「括弧」が、「省略」されてゐる。
然るに、
(33)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(32)(33)により、
(34)
(ⅰ)∃x{∀y(親xy)}=ある人は{すべての人の親である。}
(ⅱ)∀y{∃x(親xy)}=すべての人は{ある人の子である。}
に於いて、
(ⅰ)∃x=ある人は
(ⅱ)∀y=すべての人は
といふ「演算子」の、それぞれの「意味」は、
(ⅰ){∀y(親xy)}={すべての人の親である。}
(ⅱ){∃x(親xy)}={ある人の子である。}
といふ「述部の全体」に、「及んでゐる」。
然るに、
(35)
以前にも示した通り、
1 (1) ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)} A
1 (〃)あるxは吾輩であって猫であるが、名前は無い。 A
1 (〃) 吾輩は猫である。名前はまだ無い。 A
2 (2) 吾輩a&猫a& ~∃y(名前ya) A
2 (3) 吾輩a 2&E
2 (4) 猫a 2&E
2 (5) ~∃y(名前ya) 2&E
6 (6) ∃x{タマx& ∃y(名前yx)} A
6 (〃)あるxはタマであり、あるyはxの名前である。 A
6 (〃) タマには名前が有る。 A
7 (7) タマa& ∃y(名前ya) A
7 (8) タマa& 7&E
7 (9) ∃y(名前ya) 7&E
2 7 (ア) ~∃y(名前ya)&∃y(名前ya) 59&I
26 (イ) ~∃y(名前ya)&∃y(名前ya) 67アEE
2 (ウ)~∃x{タマx& ∃y(名前yx)} 6アRAA
2 (エ)∀x~{タマx& ∃y(名前yx)} ウ量化子の関係
2 (オ) ~{タマa& ∃y(名前ya)} エUE
2 (カ) ~タマa∨ ~∃y(名前ya) オ、ドモルガンの法則
キ (キ) ~タマa A
キ (ク) ~∃y(名前ya)∨~タマa キ∨I
ケ(ケ) ~∃y(名前ya) A
ケ(コ) ~∃y(名前ya)∨~タマa ケ∨I
2 (サ) ~∃y(名前ya)∨~タマa カキクケコ∨E
2 (シ) ∃y(名前ya)→~タマa サ含意の定義
2 7 (ス) ~タマa 9シMPP
2 7 (セ) 吾輩a&~タマa 3ス&I
2 7 (ソ) 吾輩a&~タマa&猫a 4セ&I
2 7 (タ) ∃x(吾輩x&~タマx&猫x) ソEI
26 (チ) ∃x(吾輩x&~タマx&猫x) 67タEE
1 6 (ツ) ∃x(吾輩x&~タマx&猫x) 12チEE
1 6 (〃)あるxは吾輩であってタマではなく猫である。 12チEE
1 6 (〃) 吾輩はタマではないが、 猫である。 12チEE
従って、
(34)(35)により、
(36)
(ⅲ) ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
(〃)あるxは{吾輩であって猫であるが、名前は無い。}
(〃) {吾輩は猫である。名前はまだ無い。}
に於いて、
(ⅰ)∃x=吾輩x=吾輩は
といふ「演算子」の「意味」は、
(ⅲ) {吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
(〃) {吾輩であって猫であるが、名前は無い。}
(〃) {吾輩は猫である。名前はまだ無い。}
といふ「述部の全体」に、「及んでゐる」。
従って、
(36)により、
(37)
(ⅲ) ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
(〃)あるxは{吾輩であって猫であるが、名前は無い。}
(〃) {吾輩は猫である。名前はまだ無い。}
といふ「述語論理・日本語」の「主題・題目」は、確かに「吾輩」である。
然るに、
(38)
(ⅲ) ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
の中には、「二つの&」が有るものの、このことは、「述語論理の観点」からすると、
(ⅲ) ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
の中には、「多ければ、三つの文が有る。」といふことを、示してゐる。
然るに、
(39)
(ⅲ) ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
の中には、「多ければ、三つの文が有る。」といふことは、
(ⅲ) ∃x{吾輩x&猫x& ~∃y(名前yx)}
の中には、「多ければ、三つのピリオド(。)が有る。」といふことを、示してゐる。
然るに、
(40)
吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
三上は、冒頭の題目「吾輩は」の文はピリオドを3回に渡った超えていると分析する。つまり、以下のような形で示せるのである。
吾輩は→猫である。
吾輩は→名前はまだ無い。
吾輩は→どこで生れたか頓と見当がつかぬ。
吾輩は→何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
(金谷武洋、日本語の文法の謎を解く、2003年、72頁)
然るに、
(35)により、
(41)
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
はともかく、
どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
といふ「日本語」を、「述語論理」に置き換へることは、少なくとも、私には、無理である。
然るに、
(42)
(ⅳ)P=名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
であるとして、
(ⅳ)吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
といふ「日本語」を、「述語論理」に置き換へることが、出来るのであれば、その場合は、
(ⅳ)∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)&P}⇔
(ⅳ)吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(43)
(ⅳ)P=名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
の中に、仮に、「四つの&」が有るとする。
従って、
(38)(39)(42)(43)により、
(44)
その場合には、
(ⅳ)∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)&P}
といふ「述語論理」には、「多ければ、八つのピリオド(。)が有る。」といふ、ことになる。
(40)(44)により、
(45)
(ⅳ)∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)&P}⇔
(ⅳ)吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
に於ける、
(ⅳ)∃x=吾輩x=吾輩は
といふ「演算子の意味」が、「複数のピリオド(。)を超える。」といふことは、「述語論理的には、普通である」。
然るに、
(46)
金谷武洋先生曰く、
三上章の『象は鼻が長い』を読み、「主語廃止論」と並んで衝撃的であったのは、「は」のコンマ超えとピリオド越えである(金谷武洋、日本語の文法の謎を解く、2003年、72頁)。
との、ことである。
平成31年04月13日、毛利太。
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