2019年7月26日金曜日

「私は大野です。」の「~は」は「既知・未知」とは関係ない。

(01)
― 長い間、「返り点」に関する「記事」を書いてゐません。「返り点と括弧」に関しては、
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html
(β)「返り点」と「括弧」の条件。  :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ):(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html
(δ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。:(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html
(ζ)「返り点・モドキ」について。  :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)⇒
 Web上には存在しますが、何故か、アクセス出来ません。
(η)「一二点・上下点」に付いて。  :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html
(θ)「括弧」の「順番」。      :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html
(ι)「返り点」と「括弧」の関係   :(https://kannbunn.blogspot.com/2019/01/blog-post_21.html
等々、「その他、諸々」を、お読み下さい。―

(01)
(3) 未知と既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
 私が大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。その未知の対象を「私」と表現して、それをガで承けた。それゆえこの形は、
 大野は私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、34頁)。
従って、
(01)により、
(02)
① 私大野です。
大野は私です。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
② 大野私です。
といふことは、
② 大野ならば私である。
といふことである。
然るに、
(04)
(ⅱ)
1  (1) P→ Q A
 2 (2) P    A
  3(3)   ~Q A
12 (4)    Q 12MPP
123(5) ~Q&Q 34&I
1 3(6)~P    25RAA
1  (7)~Q→~P 36CP
(ⅱ)
1  (1)~Q→~P A
 2 (2)~Q    A
  3(3)    P A
12 (4)   ~P 12MPP
123(5) P&~P 34&I
1 3(6)  ~~Q 25RAA
1 3(7)    Q 6DN
1  (8) P→ Q 37CP
従って、
(04)により、
(05)
(ⅱ)
1  (1)PならばQである    A
 2 (2)Pである        A
  3(3)    Qでない    A
12 (4)    Qである    12MPP
123(5)QでなくてQである   34&I
1 3(6)Pでない        25RAA
1  (7)QでないならばPでない 36CP
(ⅲ)
1  (1)QでないならばPでない A
 2 (2)Qでない        A
  3(3)       Pである A
12 (4)       Pでない 12MPP
123(5)PであってPでない   34&I
1 3(6)Qでないでない     25RAA
1 3(7)Qである        6DN
1  (8)PであるならばQである 37CP
従って、
(05)により、
(06)
(ⅱ)
1  (1)大野ならば私である    A
 2 (2)大野である        A
  3(3)     私でない    A
12 (4)     私である    12MPP
123(5)私でなくて私である    34&I
1 3(6)大野でない        25RAA
1  (7)私でないならば大野でない 36CP
(ⅲ)
1  (1)私でないならば大野でない A
 2 (2)私でない         A
  3(3)       大野である A
12 (4)       大野でない 12MPP
123(5) 大野であって大野でない 34&I
1 3(6)私でないでない      25RAA
1 3(7)私である         6DN
1  (8)大野であるならば私である 37CP
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
② 大野ならば私である。
③ 私でないならば大野でない
に於いて、「両者」は、「対偶(Contraposition)」である。
然るに、
(08)
③ 私でないならば大野でない
といふことは、
③ 私以外は大野ではない
といふことである。
従って、
(02)(03)(07)(08)により、
(09)
① 私大野です。
大野は私です。
③ 私以外は大野ではない
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(10)
③ 私以外大野ではない
④ 私以外大野である
に於いて、
③と④ は「矛盾」する。
然るに、
(11)
(ⅲ)
1  (1)∃x{私x&大野x&~∀y(x≠y→~大野y)} A
 2 (2)   私a&大野a&~∀y(a≠y→~大野y)  A
 2 (3)   私a&大野a                2&E
 2 (4)          ~∀y(a≠y→~大野y)  2&E
 2 (5)          ∃y~(a≠y→~大野y)  4量化子の関係
  6(6)            ~(a≠b→~大野b)  A
  6(7)            ~(a=b∨~大野b)  6含意の定義
  6(8)              a≠b& 大野b   7ド・モルガンの法則
  6(9)           ∃y(a≠y& 大野y)  8EI
 2 (ア)           ∃y(a≠y& 大野y)  569EE
 2 (イ)    私a&大野a&∃y(a≠y& 大野y)  29&I
 2 (ウ) ∃x{私x&大野x&∃y(x≠y& 大野y)} イEI
1  (エ) ∃x{私x&大野x&∃y(x≠y& 大野y)} 12ウEE
(ⅳ)
1  (1)∃x{私x&大野x&~∃y(x≠y& 大野y)} A
 2 (2)   私a&大野a&~∃y(a≠y& 大野y)  A
 2 (3)   私a&大野a                2&E
 2 (4)          ~∃y(a≠y& 大野y)  2&E
 2 (5)          ∀y~(a≠y& 大野y)  4量化子の関係
 2 (6)            ~(a≠b& 大野y)  5UE
 2 (7)             ~a≠b∨~大野b   6ド・モルガンの法則
 2 (8)              a≠b→~大野b   7含意の定義
 2 (9)           ∀y(a≠b→~大野b)  8UI
 2 (ア)    私a&大野a&∀y(a≠b→~大野b)  29&I
 2 (イ) ∃x{私x&大野x&∃y(x≠y& 大野y)} アEI
1  (ウ) ∃x{私x&大野x&∃y(x≠y& 大野y)} 12イEE
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ 私以外大野ではない
④ 私以外大野である
③ ∃x{私x&大野x&∀y(x≠y→~大野y)}
④ ∃x{私x&大野x&∃y(x≠y& 大野y)}
③ あるxは私であって、大野であって、すべてyについて、yがxでないならば、yは大野ではない。
④ あるxは私であって、大野であって、あるyは、xではないが、大野である。
に於いて、
③と④ は「矛盾」する。
然るに、
(13)
④ あるxは私であって、大野であって、あるyは、xではないが、大野である。
といふことは、
④ 私大野です。
といふことである。
従って、
(14)
① 私大野です=∃x{私x&大野x&∀y(x≠y→~大野y)}
④ 私大野です=∃x{私x&大野x&∃y(x≠y& 大野y)}
であって、両者は、「矛盾」する。
然るに、
(15)
だから文はその二つの要素の組み合せによって、成り立ち、そこには四つの型がつくられる。
 (1)既知(扱い)と未知(扱い)
 (2)既知(扱い)と既知(扱い)
 (3)未知(扱い)と既知(扱い)
 (4)未知(扱い)と未知(扱い)
はじめに既知がくる(1)と(2)では、既知(あるいは既知扱い)の下にという助詞を使う。また(3)と(4)では未知(あるいは未知扱い)の下にという助詞を使う。これが現代日本語の文の基本構造である。まず(1)の文例を示そう。
(1) 既知と未知
 私は大野です。
という文は、檀の上に立って私なるものが聴衆に見えている。それで、私なる存在については相手もこれをみて知っている、すると、それを既知扱いにして「私は大野です」という。この「大野です」という部分は実は未知の部分にあたり、「私は(ダレカトイウト)大野です」の意味である。たとえば、初めての家を訪問した場合に、「私大野というものですが、御主人は御在宅でしょうか。」という。その場合、「私大野ですが・・・・・」といえば、対応に出た人は怪訝な顔をする(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、24・25頁)。
然るに、
(16)
① 初めて、「渡辺さん」の家を訪問した場合に、「私渡辺という者ですが、御主人は御在宅でしょうか。」
② 初めて、「渡辺さん」の家を訪問した場合に、「私大野という者ですが、御主人は御在宅でしょうか。」
といふ場合、
① であれば、対応に出た人は怪訝な顔はせずに、
② であれば、対応に出た人は怪訝な顔をする
然るに、
(17)
② 初めて、「渡辺さん」の家を訪問した場合に、「私大野という者ですが、御主人(渡辺さん)は御在宅でしょうか。」
③ 初めて、「渡辺さん」の家を訪問した場合に、「私大野という者ですが、御主人(渡辺さん)は御在宅でしょうか。」
といふ場合、
② であっても、対応に出た人は怪訝な顔するし、
③ であっても、対応に出た人は怪訝な顔する
然るに、
(18)
「~」に関しては、「私(未知・未知扱い)」であったとしても。
「~」に関しては、「私(未知・未知扱い)」ではないはずである。
従って、
(17)(18)により、
(19)
③ 初めて、「渡辺さん」の家を訪問した場合に、「私大野という者ですが、御主人(渡辺さん)は御在宅でしょうか。」
といふ場合に、
③「対応に出た人は怪訝な顔をする」際の「理由」が、「既知(扱い)と未知(扱い)」に関連してゐる。といふ「証拠」は無い
然るに、
(20)
初めての家を訪問した場合に、いきなり、
③ 私大野です(私以外は大野でない)=∃x{私x&大野x&∀y(x≠y→~大野y)}
② 私大野です(私以外も大野である)=∃x{私x&大野x&∃y(x≠y& 大野y)}
といふのであれば、「対応に出た人が怪訝な顔をするの」は、「当然」である。
令和元年07月26日、毛利太。

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