2019年7月27日土曜日

「他ならぬ・~ガ」の「が(既知)」について:大野文法批判。

― 長い間、「返り点」に関する「記事」を書いてゐません。「返り点と括弧」に関しては、
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html
(β)「返り点」と「括弧」の条件。  :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ):(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html
(δ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。:(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html
(ζ)「返り点・モドキ」について。  :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)⇒
 Web上には存在しますが、何故か、アクセス出来ません。
(η)「一二点・上下点」に付いて。  :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html
(θ)「括弧」の「順番」。      :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html
(ι)「返り点」と「括弧」の関係   :(https://kannbunn.blogspot.com/2019/01/blog-post_21.html
等々、「その他、諸々」を、お読み下さい。―

(01)
これまでに、何度も述べた通り、
① 私大野です。
大野は私です。
③ 私以外は大野ではない
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(02)
③ 私以外は大野ではない
のやうな、
③ A以外はBでない
といふ「命題」を、「排他的命題(Exclusive proposition)」といふ。
従って、
(02)により、
(03)
④「~以外ではない所の
といふ「日本語」は、言はば、
④「排他的命題の、連体形」である。
然るに、
(04)
④「以外ではない所の
といふ「日本語」は、
④「なら
といふ「日本語」に、他ならない。
cf.
他ならぬ=他(体言)なら(断定・未然形)ぬ(打消し・連体形)。
然るに、
(05)
他ならぬ④【《他ならぬ】ほかならない。「――・・・である〔=今から言及するのは、あなたもご承知の・・・である 〕」
(三省堂、新明解国語辞典、代四版、1991年、1190頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
④(なら)ABである。
である。
といふのであれば、
④ A=あなたもご承知のなら、あのA
でなければ、ならない。
然るに、
(07)
④(なら)ABである。
⑤(なら)AはBである。
に於いて、
④ といふ「日本語」に対して、
⑤ といふ「日本語」は、存在しない
従って、
(01)~(07)により、
(08)
① AがBである(排他的命題)。
④ ABである(排他的命題の、連体形)。
に於いて、
① Aが(未知) であるとしても、
④ A未知) である。といふことは、絶対に、有り得ない
従って、
(07)(08)により、
(09)
① AがBである(A以外はBでない)。
④ ABである(ならBである)。
に於いて、
④ A は、「必ず既知である。」
従って、
(09)により、
(10)
④ チャップリン大往生(ならチャップリン大往生)。
であるならば、
④ チャップリン は、「必ず既知である。」
然るに、
(11)
 マリリンモンローディマジオと結婚!
のような見出しが女性週刊誌を賑わすのは、ガによってその上の体言を未知扱いにし、まったく驚いた、新しい情報だぞ! と読者に迫る手法である。
 あのチャップリン大往生。
のような場合、「あの」がついている以上、未知とはいえないという議論も有りうるが、むしろ既知のもの未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである。
(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、41頁)
従って、
(10)(11)により、
(12)
 あのチャップリン大往生。
のような場合、「あの」がついている以上、未知とはいえないという議論も有りうるが、むしろ既知のもの未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである
といふ「説明」は、「典型的な、詭弁」に過ぎない。
然るに、
(13)
④ あのチャップリン大往生。
を「声に出して言ふ」場合は、
④     チャップリン
に「強勢(Stress)」が置かれることになる。
然るに、
(14)
次(15)に示す通り、
④ Aが(音)
⑤ Aは(清音)
に於いて、
④ Aが(音) の方が、
⑤ Aは(清音) よりも、「心理的な音量」が大きい
(15)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。もし音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
④ あのチャップリン大往生。
を「声に出して言ふ」場合は、
④     チャップリン
に「強勢(Stress)」が置かれることになり、尚且つ、
④   チャップリンが(音) の方が、
⑤   チャップリンは(清音) よりも、「心理的な音量」が大きい
従って、
(10)(11)(16)により、
(17)
あのチャップリン大往生(ならチャップリン大往生)。
であって、
⑤ あのチャップリンは大往生(他ならぬチャップリンは大往生)。
でないことは、「当然」である。
令和元年07月27日、毛利太。

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