(01)
(ⅰ)主語述語(体言・体言)。
(ⅱ)修飾構造(連体修飾語+被修飾語)。
(〃)修飾構造(連用修飾語+被修飾語)。
(ⅲ)補足構造。
(ⅳ)並列構造。
といふ「構造」を、「漢文の基本構造」とする。
cf.
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281~284頁)。
然るに、
(02)
この内の、
(ⅲ)補足構造。
を除く、
(ⅰ)主語述語(体言・体言)。
(ⅱ)修飾構造(連体修飾語+被修飾語)。
(〃)修飾構造(連用修飾語+被修飾語)。
(ⅳ)並列構造。
に関しては、「漢文」と「日本語」の「語順」は「同じ」である。
従って、
(02)により、
(03)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
といふ、ことになる。
然るに、
(04)
① 我非必求丙以下解二中文一法上解乙漢文甲者天=
① 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]者}。
に於いて、
① 我{ }⇒{ }我
① 求[ ]⇒[ ]求
① 解( )⇒( )解
① 解( )⇒( )解
といふ「移動」を行った上、「平仮名」を加へると、
② 我は{必ずしも[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ず。
といふ「訓読」になる。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 我非必求以解中文法解漢文者=
① 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]者}⇒
② 我は{必ずしも[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ず。
に於ける、
① { [ 〔 ( )〕( ) ] }
② { [ 〔 ( )〕( ) ] }
といふ「括弧」は、
①「漢文(原文)の補足構造」を示してゐて、
①「国語(訓読)の補足構造」を示してゐる。
従って、
(02)(05)により、
(06)
① 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]者}。
といふ「漢文」を、
② 我は{必ずしも[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ず。
といふ風に「訓読」しても、
(ⅰ)主語述語(体言・体言)。
(ⅱ)修飾構造(連体修飾語+被修飾語)。
(〃)修飾構造(連用修飾語+被修飾語)。
(ⅲ)補足構造。
は、「変はらない」。
従って、
(02)(06)により、
(07)
① 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]者}。
といふ「漢文」と、
② 我は{必ずしも[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ず。
といふ「訓読」に於いて、「語順」こそは「異なる」ものの、「基本構造」は、「同じ」である。
従って、
(01)~(07)により、
(08)
「漢文訓読」とは、「漢文(原文)の構造」を「保存」した「形」で行はれる、「漢文(原文)の逐語訳」である。
然るに、
(09)
① 常読漢文=
① 常+読(漢+文)⇒
① 常+(漢+文)読=
① 常に(漢+文)を読む。
(10)
② 我読漢文=
② 我+読(漢+文)⇒
② 我+(漢+文)読=
② 我、(漢+文)を読む。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① 常読漢文=常+読(漢+文)。
② 我読漢文=我+読(漢+文)。
に於いて、
① 常 は「連用修飾語(副詞)」であって、
② 我 も「連用修飾語(副詞)」である。
従って、
(11)により、
(12)
② 我読漢文=我、漢文を読む。
といふ「漢文」に於ける、所謂「主語」は、「名詞(体言)」ではなく、「副詞(連用修飾語)」である。
然るに、
(13)
④ 私は、必ずしも、中国語を理解する方法を使って、漢文を理解しようとする者ではありません。
といふ「日本語」を、「グーグル翻訳」で、「英訳」すると、
④ I am not necessarily a person who tries to understand Chinese writing using the method of understanding Chinese.
然るに、
(14)
④ I am not necessarily a person who tries to understand Chinese writing using the method of understanding Chinese.⇒
④ I am〔not[necessarily a-person(who【tries『to「understand《Chinese-writing〈using{the- method[of〔understanding(Chinese)〕]}〉》」』】)〕]=
⑤ I 〔[necessarily (【『「《〈{[〔(Chinese)understanding〕of]the-method}using〉Chinese-writing》understand」to』tries】who)a-person〕am]not=
⑤ 私は〔[必ずしも (【『「《〈{[〔(中国語を)理解する〕の]方法を}使って〉漢文を》理解する」ことを』求める】所の)人〕である]ではない。
然るに、
(14)により、
(15)
④ I am not necessarily a person who tries to understand Chinese writing using the method of understanding Chinese.
から、
④ I am not a person.
だけを取り出した際の「括弧」は、
④ I am(not〔a-person)〕⇒
④ I (〔a-person)am〕not=
④ 私 は(〔者)である〕ではない。
である。
然るに、
(16)
④ 〔 ( ) 〕であれば、「括弧」であるが、
④ ( 〔 ) 〕の場合は、「括弧」ではない。
従って、
(17)
④ I not〔am(a-person)〕.
ではないため、
④ I am(not〔a-person)〕.
といふ「それ」は、「括弧」ではない。
従って、
(07)(17)により、
(18)
② 我は{必ずしも[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ず。
④ I am〔not[necessarily a-person(who【tries『to「understand《Chinese-writing〈using{the-method[of〔understanding(Chinese)〕]}〉》」』】)〕].
に於いて、両者は、「語順」だけでなく、「補足構造」も、「同じ」ではない。
然るに、
(19)
「訓読論」数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
従って、
(08)(18)(19)により、
(20)
いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである。
といふ「主張」は、「英文・訓読」等に於いては、さうであっても、「漢文・訓読」に於いては、「マチガイ」であって、「正しく」ない。
然るに、
(21)
然るに、
(22)
④ 二 五 三 一 四=
④ 二(五[三〔一)〕四]⇒
④ ([〔一)二〕三四]五。
然るに、
(23)
④ 二(五[三〔一)〕四]
に於ける、
④ ( [ 〔 )〕 ]
といふ「それ」は、
④ [ 〔 ( )〕 ]
ではないため、「括弧」ではない。
従って、
(05)(21)(22)(23)により、
(24)
④ 端的看不出這婆子的本事来。
④ 西門慶促忙促急償造不出床来。
といふ「白話文(中国語)」と、
④ 端的に這の婆子の本事を看出し来たらず。
④ 西門慶促忙促急に床を償造し出し来たらず。
といふ「日本語(?)」との間には、「補足構造の一致」は無い。
従って、
(05)(24)により、
(25)
① 我非必求以解中文法解漢文者=
① 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]者}⇒
② 我は{必ずしも[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ず。
といふ「漢文・訓読」と、
④ 端的看不出這婆-子的本-事来=
④ 端的看(不[出〔這婆子的本事)〕来]⇒
④ 端的に([〔這の婆子の本事を)看〕出し来たら]ず。
といふ「白話文・訓読」は、「似て非なるもの」であって、「全然、違ふ」。
然るに、
(26)
話し言葉に基づく白話文は、本来訓読には適していない(実際、現在では白話文の訓読はほとんど行われない)。しかし江戸時代、白話文は訓読されていた(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、330頁)。
従って、
(25)(26)により、
(27)
「白話文・訓読」は、固より「無茶」であったが故に、「淘汰」された。と、すべきである。
然るに、
(28)
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア:漢文)。
然るに、
(29)
「もし強いて白話文を(漢文のやうに)訓読するとたいへん奇妙な日本語になる。」といふことは、
「漢文と中国語は別物です(魚返善雄、漢文入門、1966年、16頁)」といふことに、他ならない。
然るに、
(30)
(青木)二百年前、正徳の昔に於て荻生徂徠は夙に道破した。漢学の授業法はまず支那語から取りかからねばならぬ。教うるに俗語を以てし、誦するに支那音を以てし、訳するに日本の俗語を以てし、決して和訓廻環の読み方をしてはならぬ。先ず零細な二字三字の短句から始めて、後には纏った書物を読ませる、斯くて支那語が熟達して支那人と同様になつてから、而る後段々と経子史集四部の書を読ませると云う風にすれば破竹の如しだ、是が最良の策だ(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
(31)
(倉石)徂徠は、単に唐音を操るといふ様なことに満足せず、漢文を学ぶには先ず支那語からとりかり、支那の俗語をば支那語で暗誦させ、これを日本語の俗語に訳し、決して和訓の顚倒読みをしてはならない、始めは零細な二字三字の句から始めて、遂に纏った書物を読ます、支那語が支那人ほど熟達してから、古い書物を読ませば、破竹の勢いで進歩すると説いたこれは、今日の様に外国語に対する理念が発達した時代から見れば、何の不思議もない「ことであるが、その当時、つとに、かかる意見を吐いたのは、たしかに一世に抜きんでた見識に相違ない(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
従って、
(29)(30)(31)により、
(32)
荻生徂徠先生も、青木正児先生も、倉石武四郎先生も、「漢文を学ぶのであれば、漢文とは別物の、支那語(中国語)を、最初に学ばなければならない。」と言ってゐる。
然るに、
(33)
荻生徂徠は『訳文筌蹄』の凡例において、己の読書要領および教育法のついて次のように宣言している。
余嘗為蒙生定学問之法。先為崎陽之学。教以俗語。通以華音。訳以此方語。絶不作和訓廻環之読。始以零細者。二字三字為句。後使読成書者。崎陽之学既成。乃始得為中華人。而後読経子史集四部書。勢如破竹。是最上乗也。
(勉誠出版、訓読論、2008年、53頁)
然るに、
(34)
「補足構造」が、
余嘗為(蒙生)定(学問之法)。先為(崎陽之学)。教以(俗語)。通以(華音)。訳以(此方語)。絶不〔作(和訓廻環之読)〕。始以(零細者)。二字三字為(句)。後使〔読(成書)〕者。崎陽之学既成。乃始得〔為(中華人)〕。而後読(経子史集四部書)。勢如(破竹)。是最上乗也。
であるならば、「訓読」は、
余嘗て蒙生の為に学問の法を定む。先ず崎陽の学を為す。教ふるに俗語を以てす。通ずるに華を以てす。訳するに此の方語を以てす。絶へて和訓廻環み読を作さず。始め零細の者を以てす。二字三字を句と為す。後に成書を読ま使むる者。崎陽の学既に成る。乃ち始めて中華の人為るを得。而る後子史集四部書を読む。勢い破竹の如し。是れ最上の乗なり。
といったところである。
然るに、
(34)により、
(35)
「漢文を学ぶ」ためには、「先ず崎陽の学を為す(長崎の学問、すなはち、中国語を学ぶ)こと」が「肝要」であるといふのであれば、「荻生徂徠の、中国語の先生」は、「徂徠の、中国語の先生であって、尚且つ、徂徠の、漢文の先生」でなければ、ならない。
然るに、
(36)
過則勿憚改、この「論語」「学而」編の句を、過則レ勿レ憚レ改、と返り点をうち、過テバ則チ改ムルニ憚カレと読むのは、原形の破壊である。コウ ツヱ ホ ダン カイ、と読んでこそその原形である。
として、吉川の議論は次のように続く、
その第一歩として、まず現代中国語を学び、中国語のリズムに慣れよ。なお彼が学んだ中国語音は南方言であって、右の仮名は、岡島冠山の「唐話纂要」享保元年一七一六、による。長崎税関の「通事」通訳官である冠山は、彼〔徂徠〕の弟子であるともに、彼の中国語の教師の一人であった。現在われわれが使う標準語ペキン語を拉丁化ローマ字で表記すれば、「論語」の句は Guò zé wù dàn gǎ〔となる。〕(勉誠出版、「訓読」論、2008年、226頁)
従って、
(35)(36)により、
(37)
長崎税関の「通事」通訳官である冠山は、彼〔徂徠〕の(漢学の)弟子であるともに、彼の中国語の教師の一人であり続けた。
とするならば、「矛盾」する。
従って、
(29)(37)により、
(38)
やはり、「漢文と中国語は別物です(魚返善雄、漢文入門、1966年、16頁)」とするべきであるし、
漢文は自然言語ではなかった。また「聞いて話す」音声言語ではなく、「読んで書く」ための書記言語である。漢字の習得者だけが、漢文を学習できる。「ネイティブライター」は、原理的に存在しない。― 中略 ―、文法的に正しい漢文を習得することは、中国人にとっても簡単ではなかった。「ネイティブライター」が存在できないという点では、中国人も外国人も平等である(加藤徹、白文攻略 漢文法ひとり学び、2013年、8頁・9)。との、ことである。
然るに、
(39)
⑤ 中國以北京語為國語矣。然、若北京語非漢文也。是以、中國語直読法雖盛、中華人民共和國語、不可以書中夏之書審矣。如日本之学生有欲能書漢文者、則宜以括弧学其管到。古、漢文之於日本語、猶古文之於日本語也。故、漢文亦日本語也。学中國語、莫若音読、学漢文、莫若以訓読学之。⇔
⑤ 中國以(北京語)為(國語)矣。然、若(北京語)、非(漢文)也。是以、中國語直読法雖(盛)中華人民共和國語不[可〔以書(中夏之書)〕]審矣。如日本之学生有[欲〔能書(漢文)〕者]則宜〔以(括弧)学(其管到)〕。古、漢文之於(日本語)、猶〔古文之於(日本語)〕也。故、漢文亦日本語也。学(中國語)、莫〔若(音読)〕、学(漢文)、莫[若〔以(訓読)学(之)〕]。⇔
⑤ 中國は北京語を以て國語と為せり。然れども、北京語の若きは漢文に非ざるなり。是を以て、中國語直読法は盛んなりと雖も、中華人民共和國語は以て中華の書を書く可から不ること審かなり。如し日本の学生に能く漢文を書かむと欲する者有らば則ち、宜しく括弧を以て其の管到を学ぶべし。古へ、漢文の日本語に於けるや、猶ほ古文の日本語のごときなり。故に、漢文も亦た日本語なり。中國語を学ぶは、音読に若くは莫く、漢文を学ぶは、訓読を以て之を学ぶに若くは莫し。
といふ「拙い漢文」は、「私の作例」であるものの、私自身は、「中国語」が、全くできない。
従って、
(40)
「ネイティブライター」が存在できないという点では、中国人の外国人も平等である
といふことは、「本当」である。
然るに、
(41)
日常言語の文から述語計算の文の翻訳のためには、一般にあたまが柔軟であることが必要である。なんら確定的な規則があるわけでなく、量記号に十分に馴れるまでには、練習を積むことが必要である。そこに含まれている仕事は翻訳の仕事に違いないけれども、しかしそこへ翻訳が行われる形式言語は、自然言語のシンタックスとは幾らか違ったシンタックスをもっており、また限られた述語―論理的結合記号、変数、固有名、述語文字、および2つの量記号―しかもたない。その言語のおもな長所は、記法上の制限にもかかわらず、非常に広範な表現能力をもっていることである(E.J.レモン 著、武生治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、130頁)。
従って、
(40)(41)により、
(42)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
2 (2)∀x{兎x→∃y(耳yx&長y)&∀z(~耳zx→~長z&耳zx→~鼻zx)} A
3 (3)∃x(象x&兎x) A
1 (4) 象a→∃y(鼻ya&長y)&∀z(~鼻za→~長z) 1UE
2 (5) 兎a→∃y(耳ya&長y)&∀z(~耳za→~長z&耳za→~鼻za) 2UE
6 (6) 象a&兎a A
6 (7) 兎a 6&E
6 (8) 兎a 6&E
1 6 (9) ∃y(鼻ya&長y)&∀z(~鼻za→~長z) 47MPP
2 6 (ア) ∃y(耳ya&長y)&∀z(~耳za→~長z&耳za→~鼻za) 58MPP
1 6 (イ) ∃y(鼻ya&長y) 9&E
ウ (ウ) 鼻ba&長b A
1 6 (エ) ∀z(~鼻za→~長z) 9&E
1 6 (オ) ~鼻ba→~長b エUE
2 6 (カ) ∃y(耳ya&長y) ア&E
キ(キ) 耳ba&長b A
2 6 (ク) ∀z(~耳za→~長z&耳za→~鼻za) ア&E
2 6 (ケ) ~耳ba→~長b&耳ba→~鼻ba クUE
2 6 (コ) 耳ba→~鼻ba ケ&E
キ(サ) 耳ba キ&E
2 6 キ(シ) ~鼻ba コサMPP
12 6 キ(ス) ~長b オシMPP
ウ (セ) 長b ウ&E
12 6ウキ(ソ) 長b&~長b シス&I
12 6ウ (タ) 長b&~長b カキソEE
12 6 (チ) 長b&~長b イウタEE
123 (ツ) 長b&~長b 36チEE
12 (テ)~∃x(象x&兎x) 3ツRAA
12 (ト)∀x~(象x&兎x) テ量化子の関係
12 (ナ) ~(象a&兎a) トUE
12 (ニ) ~象a∨~兎a ナ、ド・モルガンの法則
12 (ヌ) ~兎a∨~象a ニ交換法則
12 (ネ) 兎a→~象a ヌ含意の定義
12 (ノ)∀x(兎x→~象x) ネUI
12 (〃)すべてのxについて、xが兎であるならば、xは象ではない。 ネUI
12 (〃)兎は象ではない(Rabbits can not be elephants)。 ネUI
といふ「非日常言語」の「ネイティブライター」が存在しないといふ点に関しては、「漢文といふ人工言語」も、「述語論理といふ人工言語」も、「同じ」である。
従って、
(43)
(青木)二百年前、正徳の昔に於て荻生徂徠は夙に道破した。漢学の授業法はまず支那語から取りかからねばならぬ。
といふ「言ひ方」は、「述語論理といふ人工言語」を学ぶには、「先ず、英語を学ばなければならない。」と言ってゐるのと、「同じ」であるため、明らかな「マチガイ」である。
令和02年02月12日、毛利太。
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