(01)
「先ほど(令和02年02月16日)の記事」でも書いた通り、
① 象は、鼻が長い。 ⇔ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
② 象は、鼻以外は長くない。⇔ ~∃x{象x&∃y(鼻yx&長y)→∃z(~鼻zx& 長z)}。
に於いても、
①=② である。
然るに、
(02)
「文語」の場合は、
③ 象は、鼻長し。
③ 孔子は聖人なり。
といふ「言ひ方」はあり得ても、
③ 象は、鼻が長い。
③ 孔子が聖人なり。
といふ「言ひ方」はあり得ない。
然るに、
(03)
118 ∀x(Fx→P)┤├ ∃xFx→P
(a)
1 (1)∀x(Fx→P) A
2 (2) ∃xFx A
3(3) Fa A
1 (4) Fa→P 1UE
1 3(5) P 34MPP
12 (6) P 235EE
1 (7) ∃xFx→P 26CP
(b)
1 (1) ∃xFx→P A
2 (2) Fa A
2 (3) ∃xFx 2EI
12 (4) P 13MPP
1 (5) Fa→P 24CP
1 (6)∀x(Fx→P) 5UI
任意の対象に対して、それがFをもつならばP。
という普遍命題と、
あるものがFをもつならばP。
といふ条件法とは、
相互に導出可能である。ここで、
∀x(Fx→P)における、
∀x は、
(Fx→P)の全表現に作用を及ぼす。
(E.J.レモン、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野楢英 訳、1973年、161頁改)
然るに、
(03)により、
(04)
∀x(Fx→P)における、
∀x は、
(Fx→P)の全表現に作用を及ぼす。
といふことは、例へば、
① ∀x(象x→P)。
に於いて、
② P=動物x
③ P=∃y(鼻yx&長y)
といふ「代入(Substitution)」を行ふことが、出来る。
といふことである。
然るに、
(05)
① ∀x(象x→P)。
に於いて、
② P=動物x
③ P=∃y(鼻yx&長y)
といふ「代入(Substitution)」を行ふと、
② ∀x(象x→動物x)。
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
となって、それぞれの「読み方」は、
② すべてのxについて(xが象であるならば、xは動物である)。
③ すべてのxについて{xが象であるならば、あるyは(xの鼻であって、長い)}。
然るに、
(06)
② すべてのxについて(xが象であるならば、xは動物である)。
③ すべてのxについて{xが象であるならば、あるyは(xの鼻であって、長い)}。
といふことは、「文語」で言ふと、
② 象は動物なり。
③ 象は鼻長し。
といふ、ことである。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① 述語論理。
といふ「観点」からすれば、
② 象は動物なり。
③ 象は鼻長し。
といふ「訓読」は、両方とも、
① ∀x(象x→P)。
といふ「形」をしていて、
② であれば、
② P=動物x
であって、
③ であれば、
③ P=∃y(鼻yx&長y)
である。
といふ、ことになる。
然るに、
(08)
それでは、狭義の述語論理において究極的な主語となるものは何であろうか。それは「人間」というような一般的なものではない。また「ソクラテス」も述語になりうるし、「これ」すらも「これとは何か」という問に対して「部屋の隅にある机がこれです」ということができる。
そこで私たちは主語を示す変項x、yを文字通りに解釈して、「或るもの」(英語で表現するならば something)とか、「他の或るもの」というような不定代名詞にあたるものを最も基本的な主語とする。そこで「ソクラテスは人間である」といふ一つの文は、
(xはソクラテスである)(xは人間である)
という、もっとも基本的な 主語-述語 からなる二つの文の特定の組み合わせと考えることができる。すなわち、
SはPである。
という一般的な 主語-述語文は、
Fx Gx
という二つの文で構成されていると考える。そしてこの場合、Fx はもとの文の主語に対応し、Gx は述語に対応していることがわかる。
(沢田充茂、現代論理学入門、1962年、118・119頁)
従って、
(05)08)により、
(09)
① 述語論理。
といふ「観点」からすれば、
① ∀x(象x→P)。
であれば、
① 象x は、主語であり、Pは述語であり、
② ∀x(象x→動物x)。
であれば、
② 象x は、主語であり、動物xは述語であり、、
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
であれば、
③ 象x は、主語であり、∃y(鼻yx&長y) は述語であり、尚且つ、
③ の場合は、
③ ∃y(鼻yx&長y) に於いて、鼻yx は、主語であり、長y は述語である。
従って、
(09)により、
(10)
① ∀x(象x→P)。
といふ「観点」からすれば、
③ 象は鼻長し=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
といふ「文語」は、
③ 述語 の中に、「主語・述語」が、「組み込まれてゐる」。
然るに、
(11)
一、總主トハ如何ナル者ゾ
動詞、形容詞ニ對シテ其主語アルト同ジク、主語ト説語(動詞或ハ形容詞)トヨリ成レル一ノ説話(即チ文)ニ對シテモ更ニソノ主語アルコト國語ニハ屡々アリ。例ヘバ「象は體大なり」ノ「象」、「熊は力強し」ノ「熊」、「鳥獸蟲魚皆性あり」ノ「鳥獸蟲魚」、「仁者は命長し」ノ「仁者」、「賣藥は效能薄し」ノ「賣藥」、「慾は限無し」ノ「慾」、「酒は養生に害あり」ノ「酒」、「支那は人口多し」ノ「支那」ノ如キハ、皆、「體大なり」「力強し」等ノ一説話ニ對シテ更ニソノ主語タル性格ヲ有ス。何トナレバ「象は體大なり」「熊は力強し」等ヨリ「象」「熊」等ノ再度ノ主語ヲ取去ル時ハ、殘餘ハ「體大なり」「力強し」等トナリテ、文法上ノ文ノ形ハ完全ニ之ヲ具フルニモ拘ラズ、意義ニ不足ヲ生ジ、其事ノ主トアルベキ「象」「熊」等ノ名詞ヲ竢ッテ始メテ意義ノ完全ナル一圓ノ説話ヲ成サントスル傾アルコト、ナホ普通ノ動詞、形容詞ノ名詞ヲ竢ッテ始メテ一ノ完全ナル説話ヲ成サントスル傾アルト同趣味ノモノアレバナリ。殊ニ「性有り」「限無し」等ノ一種ノ説話ニ對シテハ、實用ノ際ニ再度ノ主語ノ必要アル事ハ頗ル顯著ナルニアラズヤ。コレハ「うら(心)やまし(疚)」「て(質)がたし(堅)」ナドノ一説話ノ轉シテ一ノ形容詞トナリ、然ル上ハ實用ノ際ニ更ニソノ主語ヲ取ルト一般ナリ。サレバ「富貴は羨し」ノ「うらやまし」ニ對シテ「富貴」ヲ主語トイフヲ至當トセバ、「體大なり」「力強し」ニ對シテ「象」「熊」ヲソノ主語トイフモ亦不當ニハアラジ。斯カレバコノ類ノ再度ノ主ヲ予ハ別ニ「總主」ト名ヅケントス。總主ハ斯ク頗ル簡單ニ説明セラルベク、亦容易ニ會得セラルベキ者ナリ。
(草野淸民、國語の特有セル語法 ― 總主、『帝國文學』五卷五號、明治三十二年:大修館書店、日本の言語学 第3巻 文法Ⅰ、1978年、533頁)
然るに、
(12)
動詞、形容詞ニ對シテ其主語アルト同ジク、主語ト説語(動詞或ハ形容詞)トヨリ成レル一ノ説話(即チ文)ニ對シテモ更ニソノ主語アルコト國語ニハ屡々アリ。
動詞・形容詞に「主語」があるように、「主語と述語」からなる「文」に対して、更に「主語」があることは、日本語には、よくあることである。
といふことは、
③ 象は鼻長し。
に於いて、
③「象は」は「鼻長し(主語・述語)」。
の「主語」である。
といふ、ことである。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
草野淸民先生が、所謂、「総主」とは、
① ∀x(象x→P)。
といふ「観点」からすれば、
③ 象は鼻長し=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
であるものの、そのことを、
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
といふ、「右辺」を見ずに、
③ 象は鼻長し。
といふ、「左辺」だけから、断定してゐる。
加へて、
(14)
總主ハ斯ク頗ル簡單ニ説明セラルベク、亦容易ニ會得セラルベキ者ナリ。
総主はこのように極めて簡単に説明できるし、また、容易に理解できるものである。
とも、述べてゐる。
従って、
(13)(14)により、
(15)
草野淸民先生は、
③ 象は鼻長し。
といふ「日本語」には、
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
といふ「構造」がある。
といふことを、そんなことをは、「当り前」である。
と、言ってゐる。
従って、
(16)
草野淸民先生の、所謂、「総主」からすれば、
③ 象は鼻長し。⇔
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。⇔
③ すべてのxについて{xが象であるなるならば(あるyはxの鼻であってyは長い)}。
といふ「等式」は、「日本語話者の直観」としても、「述語論理(Predicate logic)」としても、「正しい」。
従って、
(01)(16)により、
(17)
草野淸民先生の、所謂、「総主」からすれば、
① 象は鼻が長い。⇔
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。⇔
① すべてのxについて{xが象であるならば、あるyはxの鼻であって、長く、すべてのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない}。
といふ「等式」も、「特別にユニーク」であるとは、言へないはずである。
令和02年02月16日、毛利太。
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