(01)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(02)
括弧は、漢字のスコープ(管到)を明示する働きを持つ。管到(スコープ)は、「漢字の意味」が及ぶ範囲のことをいう。
といふ「言ひ方」も、可能である。
従って、
(02)により、
(03)
① 読(漢文)。
に於いて、
① 読 の意味は、(漢文)に及んでゐる。
(03)により、
(04)
② 読(漢文)学(漢字)。
に於いて、
② 読 の意味は、(漢文)に及んでゐて、
② 学 の意味は、(漢字)に及んでゐる。
従って、
(04)により、
(05)
③ 欲〔読(漢文)学(漢字)〕。
に於いて、
に於いて、
③ 読 の意味は、(漢文)に及んでゐて、
③ 学 の意味は、(漢字)に及んでゐて、
③ 欲 の意味は、〔読(漢文)学(漢字)〕に及んでゐる。
従って、
(05)により、
(06)
④ 不[欲〔読(漢文)学(漢字)〕]。
に於いて、
④ 読 の意味は、(漢文)に及んでゐて、
④ 学 の意味は、(漢字)に及んでゐて、
④ 欲 の意味は、〔読(漢文)学(漢字)〕に及んでゐて、
④ 不 の意味は、[欲〔読(漢文)学(漢字)〕]に及んでゐる。
従って、
(06)により、
(07)
⑤ 非{不[欲〔読(漢文)学(漢字)〕]}。
に於いて、
⑤ 読 の意味は、(漢文)に及んでゐて、
⑤ 学 の意味は、(漢字)に及んでゐて、
⑤ 欲 の意味は、〔読(漢文)学(漢字)〕に及んでゐて、
⑤ 不 の意味は、[欲〔読(漢文)学(漢字)〕]に及んでゐて、
⑤ 非 の意味は、{不[欲〔読(漢文)学(漢字)〕]}に及んでゐる。
然るに、
(08)
⑤ 非{不[欲〔読(漢文)学(漢字)〕]}。
に於いて、
非{ }⇒{ }非
不[ ]⇒[ ]不
欲〔 〕⇒〔 〕欲
読( )⇒( )読
学( )⇒( )学
といふ「移動」を行ふと、
⑤ 非{不[欲〔読(漢文)学(漢字)〕]}⇒
⑤ {[〔(漢文)読(漢字)学〕欲]不}非=
⑤ {[〔(漢文を)読み(漢字を)学ばんと〕欲せ]不る}非ず。
といふ「訓読の語順」になる。
然るに、
(09)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(08)(09)により、
(10)
⑤ 非{不[欲〔読(漢文)学(漢字)〕]}。
に於ける、
⑤{ [ 〔 ( )( ) 〕 ] }
といふ「括弧」は、
⑤ 非不欲読漢文学漢字。
といふ「漢文の補足構造」と、表すと「同時」に、
⑤ 漢文を読み漢字を学ばんと欲せ不る非ず。
といふ「訓読の語順」を表してゐる。
然るに、
(11)
⑤ 非{不[欲〔読(漢文)学(漢字)〕]}。
に対する、
⑥ 我非{必不[欲〔読(漢文)学(漢字)〕]者}。
に於いて、
⑥ 我 は「主語」であり、
⑥ 必 は「連用修飾語」であり、
⑥ 者 は「被連体修飾語」であるため、
⑥ これらの3つは、「補足構造」とは、「関係」が無い。
従って、
(10)(11)により、
(12)
⑤ 非{ 不[欲〔読(漢文)学(漢字)〕] }。
⑥ 我非{必不[欲〔読(漢文)学(漢字)〕]者}。
に於いて、
⑤ の「補足構造」と、
⑥ の「補足構造」は、「等しい」。
然るに、
(13)
⑥ 我非{必不[欲〔読(漢文)学(漢字)〕]者}。
に於いて、
非{ }⇒{ }非
不[ ]⇒[ ]不
欲〔 〕⇒〔 〕欲
読( )⇒( )読
学( )⇒( )学
といふ「移動」を行ふと、
⑥ 我非{必不[欲〔読(漢文)学(漢字)〕]者}⇒
⑥ 我は{必ずしも[〔(漢文)読(漢字)学〕欲]不者}非=
⑥ 我は{必ずしも[〔(漢文を)読み(漢字を)学ばんと〕欲せ]不る者も}非ず。
といふ「訓読の語順」になる。
従って、
(09)(13)により、
(14)
⑥ 我非{必不[欲〔読(漢文)学(漢字)〕]者}。
に於ける、
⑥{ [ 〔 ( )( ) 〕 ] }
といふ「括弧」は、
⑥ 我非必不欲読漢文学漢字者。
といふ「漢文の補足構造」を表すと「同時」に、
⑥ 我は必ずしも漢文を読み漢字を学ばんと欲せ不る者も非ず。
といふ「訓読の語順」を表してゐる。
然るに、
(15)
⑦ 我非〈必不{求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
非〈 〉⇒〈 〉非
不{ }⇒{ }不
求[ ]⇒[ ]求
以〔 〕⇒〔 〕以
解( )⇒( )解
解( )⇒( )解
といふ「移動」を行ふと、
⑦ 我非〈必不{求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
⑦ 我〈必{[〔(英文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑦ 我は〈必ずしも{[〔(英文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
といふ「訓読の語順」になる。
従って、
(03)(09)(15)により、
(16)
① 読(漢文)。
⑦ 我非〈必不{求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於ける、
①( )
⑦〈 { [ 〔 ( )( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」は、両方とも、
① 読漢文。
⑦ 我非必不求以解英文法解漢文者也。
といふ「漢文の補足構造」を表すと「同時」に、
① 漢文を読む。
⑦ 我は必ずしも英文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざる也。
といふ「訓読の語順」を表してゐる。
然るに、
(17)
① 読二漢文一。
⑦ 我非地必不レ求丙以下解二英文一法上解乙漢文甲者天也。
然るに、
(18)
① 読漢文。
⑦ 我非必不求以解英文法解漢文者也。
といふ「漢文」を、
① 漢文を読む。
⑦ 我は必ずしも英文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざる也。
といふ風に、「訓読」出来ないのに、
① 読漢文。
⑦ 我非必不求以解英文法解漢文者也。
といふ「漢文」に対して、
① 二 一
⑦ 地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
といふ「返り点」を付けることが出来る。
といふことは、有り得ない。
従って、
(02)(16)(17)(18)により、
(19)
ある人物が、
① 読漢文。
⑦ 我非必不求以解英文法解漢文者也。
といふ「漢文」を、
① 漢文を読む。
⑦ 我は必ずしも英文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざる也。
といふ風に、「訓読」出来ないにも拘らず、
① 読漢文。
⑦ 我非必不求以解英文法解漢文者也。
といふ「漢文」に対して、
① 二 一
⑦ 地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
といふ「返り点」を付けることが出来るのであれば、その人には、
① 読(漢文)。
⑦ 我非〈必不{求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「管到(スコープ)」が、「見えてゐる」といふ、ことになる。
然るに、
(20)
⑦ 我非必不求以解英文法解漢文者也。
といふ「漢文」を「(日本漢字音で)音読」するだけであるならば、「小学生の頃の私」でも、「可能」である。
然るに、
(21)
⑦ 我非必不求以解英文法解漢文者也。
といふ「漢文」を、「一読」して、
⑦ 我は必ずしも英文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざる也。
といふ風に、「訓読」することは、「大学受験生の頃の私」には、「不可能」である。
従って、
(20)(21)により、
(22)
少なくとも、日本人にとって、「漢文が読める(理解できる)」といふことは、「訓読が出来る」ことに、等しい。
然るに、
(23)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)。
従って、
(02)(22)(23)により、
(24)
日本語が出来る、中国人にとっても、「漢文が読める(理解できる)」といふことは、「訓読が出来る」ことに、等しい。
然るに、
(25)
漢字は、実は、本場の中国においても、その読み方は地域の自由にまかせているのである。― 中略 ―その多様さはインド・ヨーロッパ語族の多様さに優に匹敵する。それゆえに、もし中国においてことばの表記を表音文字にきりかえたならば、同時に十三以上の外国語ができてしまうということになる(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、134・5頁)。
従って、
(26)
⑦「日本漢字音」で、
⑦ ガヒフツキウイカイエイブンホウカイカンブンシャヤ。
と「音読」しようと、
⑦「北京語」で、
⑦ Wǒ fēi bì bù qiú yǐ jiě yīngwén fǎ jiě hànwén zhě yě.
と「音読」しようと、
⑦ 我非必不求以解英文法解漢文者也。
であることには、「変り」が無いし、「漢字」とは、固より、「そういふもの」である。
然るに、その一方で、
(27)
「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。との、ことである。
然るに、その一方で、
(28)
専門家と称する人たちの大部分、九九.九パーセントは、(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである。これは厳たる事実である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、62頁)。との、ことである。
令和02年05月14日、毛利太。
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